我が町小川の歴史
2012年,3月,5日より

1古地図に残る小川城  今川氏の相続争い時に北川殿と竜王丸(今川氏親)が一時身を寄せた屋敷
  焼津市の小川城遺跡は、焼津市の豪族の長谷川氏の屋敷跡だと伝えられています。
1476年に菊川市(旧小笠町)の塩買坂で、今川義忠(いまがわよしただ、今川義元の祖父)が討ち死にして
、今川氏の後継者争いが起きました。

その際に、義忠の正室である北川殿(伊勢新九郎盛時(北条早雲)の姉(妹?)と、
嫡男の龍王丸(後の今川氏親(いまがわうじちか))は、
保護されていた場所です。

その後は、盛時の働きによって龍王丸が後継者となります。
長谷川氏の子孫は今川氏の家臣となり、後に徳川家康に仕えました。
小川城は、武田信玄の駿河侵攻で焼かれたと考えられています。

2小川城の立地
  http://yahoo.jp/s3s-av


 
市内の小川城遺跡から、中将棋の駒が2枚発掘されています。焼津駒と呼ばれています。
 小川城遺跡は、室町時代最も栄えた武士の館の遺跡です。その時代から焼津には将棋に親しむ
 文化が有りました

氏神様  熊野神社

小川城主であった長谷川元長が大永6年(1526)紀伊にのがれ、熊野三社を勧請して帰り、
社殿を造営して奉斎以来この神を産土神とした。

北条早雲との関係
 北川殿の弟(または兄)である早雲は駿河へ下り、調停を行い龍王丸が成人するまで範満を家督代行とすることで決着させた。
上杉政憲と太田道灌も撤兵させた(この時に道灌と会談したという話もある。旧来の説なら、早雲と道灌は同年齢であった)。
両派は浅間神社で神水を酌み交わして和議を誓った。家督を代行した範満が駿河館に入り、
龍王丸は母北川殿と小川の法永長者(
長谷川政宣)の小川城焼津市)に身を寄せた。

従来、この調停成功は早雲の抜群の知略による立身出世の第一歩とされるが、これは貞親・盛定の命により
駿河守護家今川氏の家督相続介入の為に下向したものであるとの説が有力となっている。
        ETCは次回